ラーメン 「背だく」

大学入学後、初めて迎えたお盆を実家で過ごした僕は、京都の下宿に戻るとすぐに「背(せ)だく」へと向かった。

夏の京都の蒸し暑さというのは聞いていて覚悟もしていたけれど、噂にたがわぬものだった。市の全ての路面は陽炎を燃え立たせ、昼の熱気は日が落ちてからもなおしばらく居座って、夜の町を蒸し焼きにする。

僕は「背だく」にラーメンを食べに行っているんじゃなくて、お冷やを飲みに行っているのかもしれない、と時々思う。ぐつぐつと煮立ち、どろどろとまとわりつく空気に、箸で線を引いていくように、僕は小川沿いを自転車で漕ぎ進んだ。久石譲のsummerを口笛で吹きながら。

 

曲の後半、主題の変奏にあたる部分まできて、summerの口笛は中断される。それは店の近くまで来て感じた違和感のせいだ。

普段だとこの辺りにはもう漂っている、目に見えるような濃い匂いが見当たらない。自転車を駐めて、店の方へ歩いてくる。いつもの行列が嘘のように誰もいない。軒先の赤提灯も明かりを消している。もはや無いに等しい可能性にすがって店の前まできてみると、

「しばらく休業致します」

木戸に貼られた紙に、毛筆で簡潔にそう書かれていた。

 

思わず落胆と悲嘆の声が漏れる。空っぽの胃袋が非難するようにグウと鳴る。僕が芝居みたいに、がっくりと肩を落とし腰に手を当て立ちつくし、誰にともなく落胆のポーズをとっていると、

「これ、いつ開くか分からんで」

と、後ろから一人の男の人が声をかけてきた。慌てて僕はポーズを中断し、真っすぐに立ち直った。

「あ、こんにちは。そうなんですね」

「はいこんにちは」

どこかで見たことある顔だと思う。確かこの人、「背だく」の常連のおじさんだ。

「なんで休まれてるんでしょう」

「さあ。けど何年かに一度休まれるね。前はいつやったかな」

まぁ座りなさいとおじさんに促され、促されるまま二人横並びで、提灯の脇の長椅子に腰をかける。庇があって助かった。空腹と暑さで頭の回らない僕の目の前、白川通を、自動車が往来している。遠くを歩く人影も、陽炎に呑まれて、奇妙にゆらゆらと揺れるようにみえる。

 

「お腹空いとるやろ」と言って、おじさんが小脇に抱えたセカンドバックから取り出したのは、封のあいたスティックパンの袋だ。おじさんはタバコを箱から一本渡すみたいな所作で、そのうちの一本を僕に差し出し、「食べや〜」と、まるで誇張を抑えたゆりやんレトリィバァみたいにゆっくり言った。

いったい大人というのには、大人たちの世間話というのには、こういうことが当たり前に付属するものなのかと考えを巡らせ、僕はそれを受け取るかどうか一瞬迷った。結局、善意は受け取っておこう、とか、自分を場馴れた大人らしく見せかけよう、とか打算的に考えて、差し出されたその一本を指先でつまみ取った。

「いただきます」

ちなみに、初めて会話をするおじさんのセカンドバックから出てきた開封済みのスティックパンは別に断ってもいい、というのが今の僕の意見だ。これは柳瀬さんが(おじさんの名前。後から教えてもらった)変なおじさんだったというわけでは多分なくて、きっと、僕の方がそれだけ子どもっぽく見えていたせいなんだと思う。十九歳。一人暮らしもアルバイトも始めて、目が回るほどのたくさんの変化を通ってきて、大人になったつもりでいたけれど。

乾いた唇に、乾いたスティックパンがこしょぐったく触れる。ひとくち齧って咀嚼する。ソフトな甘味を溶かす唾液に、乾いた口腔が湿っていく。善意だなんだ言ったけれど、ただ単にお腹がへっていて食べたかっただけなのだと分かる。

 

「君はここら辺の子じゃないね」

「はい。出身は京都ではなくて。今年の春から近くで下宿してます」

「ほお。大学生か?どこ大?」

「えーと…」と言い少し間をとって「U大です」と言う。この「えーと…」は別にドラムロールのつもりではないのだけれど、

「おお。頭ええやんか」

いつも褒めてもらえる。まあ褒められるのは嬉しい。ちょっとは褒められたいくらい、受験勉強は大変だった。ドラムロールのつもりなのかもしれない。

「たまたまです。マークシートでしたし」

「たまたまか」

と言って笑ったあと、おじさんはやや真面目な顔つきになって、こんな話をし始めた。

 

 

「U大か。しかしな、話は戻るけれど、いつも休まず営業してる「背だく」が休んでる。つまり普段通りじゃないことが起きてるということやな。普段通りじゃないことが起きてるということは、何かが普段通りじゃなくなってるということや」

進次郎構文。いや、この場合はちゃんとしたトートロジーか。

「となると、普段通りじゃないことが何かこれから起きてきたとしても、不思議ではないということ。その前触れとして、”いつもと違いますよ、気づいてください”と現実が我々にサインを出している。そのサインは何か重要なヒントかも知らんし、警告かも知らん。「背だく」の休業はそのどちらやろうな?

 もちろん、サインと思ったらただの勘違いだったっていうこともある。ならばそれに越したことは無い。この休業は、通常営業の範囲内、普段通りの範囲内でした、ということやからね。

 僕くらいになると、どんなことも普段通りが一番なんやけどな。U大君(ゆーだいくん)くらいの歳やと、普段通りなんてつまらん、新しい刺激が欲しいとか、目に見える変化が欲しいとか、思うんやろうけどね。たとえば「summer」みたいな冒険が、したいとか」

「あ、はい」聞かれていたかと赤面し、胸がどきどきする。これが新しい刺激か…。U大君という呼び名は、目に見える変化か。

「あの、島本って言います」

「島本君か。ども。僕は柳瀬と言います。しかしね、なんといっても島本君、君はまだ若い!なんという若さだろう!だから普段と違うサインを見つけろと言われても、分からんことの方が多いのはしょうがないことやね。なにせ普段通りというものが、そもそも揺らいでるような年頃や。ただ近いうちにそうも言ってられなくなる。じゃあどうするか。サインを見極める目は、実地で得た経験によって培われていく。当たり前やけどね。

 アルバイトなんかおすすめやね。いろんな人と関わりながら労働して社会に貢献して、対価として金を受け取って、好きなことにそれを使う。それが今のこの世の中の基本的な回り方やからな、感じは掴んでおいて損はない。というよりなによりも、先立つものは金や。豚カツをな、食べたいときに食べられるようになりなさいと、言うやろう。

 あとは学校の勉強したり、本を読んだり、映画を見たり。友達も大切やな。もちろん、人数じゃないで。けど人数が増えてくのも面白いし、助けになることもある。なかには危ないやつももちろんおるけどな。それから恋とか愛とかいうのんも、みなみな勉強やな。できればなるべく相手を傷つけないように。自分も傷つかないように…って、無茶な話か。しかし、取り返せないほどの傷というのは、避けられるように。いや、避けられないこともあるか。その時はその時で、また話をしよう。うん。言うてたら全部が全部、大切なもんになってしまったな」

 

もらったスティックパンはいまやすっかり胃の中だ。僕はもう一本欲しいなと無意識に思っている。街路樹の蝉は鳴くのをやめてじっと暑さを忍んでいる。

『普段通りじゃないことが何かこれから起きてきたとしても、不思議ではない』という言葉が、僕を少し不安にさせる。しかしこのおじさん、柳瀬さん、やけにとうとうと話すのは、どこかで教鞭を取っている人か、会社の偉い人か。それともおじさんになれば誰もがこんな風に話せるようになるものなんだろうか。

柳瀬さんはセカンドバックからハンカチを出して額を拭うと、長椅子から立ち上がり、ズボンのポケットからコインケースを取り出した。長話して、すまんの、なんか飲むか、と言ってそばの自販機の前まで行き、小銭を投入した。

 

僕が自販機のシズル感あふれるラインナップに目を走らせ頭を悩ませていると、一人の痩せた男が、赤提灯の影から、まるで陽炎を纏うように奇妙に揺れながら現れた。男は店の木戸の前まで来て、休業を伝える貼り紙に目を落とすとそのまま、釘付けにされたように動かなくなった。

動かなくなった?

柳瀬さんが後で駆けつけた救急隊員に話したところによると、その猫背の男は起立したまま、今にも瓦解して崩れ落ちそうなほどにぶるぶると震えていたという。

僕はエナジードリンクと迷った結果、水にすることにして、天然水のボタンを押した。ペットボトルが取出口に落ちる音と、お釣りの戻る音の何デシベルかが合わさって、あたりの静けさを少しだけ乱した。

そのやや耳障りな音の波は痩せた男にまで伝わって、決壊に至る最後の一滴となった。男は、嘔吐の寸前のような大口を開けて、噴火するように、奇妙な大声を絞り出した。

 

「ラーメン、食わせろらぁぁぁ!!」