ラーメン 「背だく」

大学入学後、初めて迎えたお盆を実家で過ごした僕は、京都の下宿に戻るとすぐに「背(せ)だく」へと向かった。

夏の京都の蒸し暑さというのは聞いていて覚悟もしていたけれど、噂にたがわぬものだった。市の全ての路面は陽炎を燃え立たせ、昼の熱気は日が落ちてからもなおしばらく居座って、夜の町を蒸し焼きにする。

僕は「背だく」にラーメンを食べに行っているんじゃなくて、お冷やを飲みに行っているのかもしれない、と時々思う。ぐつぐつと煮立ち、どろどろとまとわりつく空気に、箸で線を引いていくように、僕は小川沿いを自転車で漕ぎ進んだ。久石譲のsummerを口笛で吹きながら。

 

曲の後半、主題の変奏にあたる部分まできて、summerの口笛は中断される。それは店の近くまで来て感じた違和感のせいだ。

普段だとこの辺りにはもう漂っている、目に見えるような濃い匂いが見当たらない。自転車を駐めて、店の方へ歩いてくる。いつもの行列が嘘のように誰もいない。軒先の赤提灯も明かりを消している。もはや無いに等しい可能性にすがって店の前まできてみると、

「しばらく休業致します」

木戸に貼られた紙に、毛筆で簡潔にそう書かれていた。

 

思わず落胆と悲嘆の声が漏れる。空っぽの胃袋が非難するようにグウと鳴る。僕が芝居みたいに、がっくりと肩を落とし腰に手を当て立ちつくし、誰にともなく落胆のポーズをとっていると、

「これ、いつ開くか分からんで」

と、後ろから一人の男の人が声をかけてきた。慌てて僕はポーズを中断し、真っすぐに立ち直った。

「あ、こんにちは。そうなんですね」

「はいこんにちは」

どこかで見たことある顔だと思う。確かこの人、「背だく」の常連のおじさんだ。

「なんで休まれてるんでしょう」

「さあ。けど何年かに一度休まれるね。前はいつやったかな」

まぁ座りなさいとおじさんに促され、促されるまま二人横並びで、提灯の脇の長椅子に腰をかける。庇があって助かった。空腹と暑さで頭の回らない僕の目の前、白川通を、自動車が往来している。遠くを歩く人影も、陽炎に呑まれて、奇妙にゆらゆらと揺れるようにみえる。

 

「お腹空いとるやろ」と言って、おじさんが小脇に抱えたセカンドバックから取り出したのは、封のあいたスティックパンの袋だ。おじさんはタバコを箱から一本渡すみたいな所作で、そのうちの一本を僕に差し出し、「食べや〜」と、まるで誇張を抑えたゆりやんレトリィバァみたいにゆっくり言った。

いったい大人というのには、大人たちの世間話というのには、こういうことが当たり前に付属するものなのかと考えを巡らせ、僕はそれを受け取るかどうか一瞬迷った。結局、善意は受け取っておこう、とか、自分を場馴れた大人らしく見せかけよう、とか打算的に考えて、差し出されたその一本を指先でつまみ取った。

「いただきます」

ちなみに、初めて会話をするおじさんのセカンドバックから出てきた開封済みのスティックパンは別に断ってもいい、というのが今の僕の意見だ。これは柳瀬さんが(おじさんの名前。後から教えてもらった)変なおじさんだったというわけでは多分なくて、きっと、僕の方がそれだけ子どもっぽく見えていたせいなんだと思う。十九歳。一人暮らしもアルバイトも始めて、目が回るほどのたくさんの変化を通ってきて、大人になったつもりでいたけれど。

乾いた唇に、乾いたスティックパンがこしょぐったく触れる。ひとくち齧って咀嚼する。ソフトな甘味を溶かす唾液に、乾いた口腔が湿っていく。善意だなんだ言ったけれど、ただ単にお腹がへっていて食べたかっただけなのだと分かる。

 

「君はここら辺の子じゃないね」

「はい。出身は京都ではなくて。今年の春から近くで下宿してます」

「ほお。大学生か?どこ大?」

「えーと…」と言い少し間をとって「U大です」と言う。この「えーと…」は別にドラムロールのつもりではないのだけれど、

「おお。頭ええやんか」

いつも褒めてもらえる。まあ褒められるのは嬉しい。ちょっとは褒められたいくらい、受験勉強は大変だった。ドラムロールのつもりなのかもしれない。

「たまたまです。マークシートでしたし」

「たまたまか」

と言って笑ったあと、おじさんはやや真面目な顔つきになって、こんな話をし始めた。

 

 

「U大か。しかしな、話は戻るけれど、いつも休まず営業してる「背だく」が休んでる。つまり普段通りじゃないことが起きてるということやな。普段通りじゃないことが起きてるということは、何かが普段通りじゃなくなってるということや」

進次郎構文。いや、この場合はちゃんとしたトートロジーか。

「となると、普段通りじゃないことが何かこれから起きてきたとしても、不思議ではないということ。その前触れとして、”いつもと違いますよ、気づいてください”と現実が我々にサインを出している。そのサインは何か重要なヒントかも知らんし、警告かも知らん。「背だく」の休業はそのどちらやろうな?

 もちろん、サインと思ったらただの勘違いだったっていうこともある。ならばそれに越したことは無い。この休業は、通常営業の範囲内、普段通りの範囲内でした、ということやからね。

 僕くらいになると、どんなことも普段通りが一番なんやけどな。U大君(ゆーだいくん)くらいの歳やと、普段通りなんてつまらん、新しい刺激が欲しいとか、目に見える変化が欲しいとか、思うんやろうけどね。たとえば「summer」みたいな冒険が、したいとか」

「あ、はい」聞かれていたかと赤面し、胸がどきどきする。これが新しい刺激か…。U大君という呼び名は、目に見える変化か。

「あの、島本って言います」

「島本君か。ども。僕は柳瀬と言います。しかしね、なんといっても島本君、君はまだ若い!なんという若さだろう!だから普段と違うサインを見つけろと言われても、分からんことの方が多いのはしょうがないことやね。なにせ普段通りというものが、そもそも揺らいでるような年頃や。ただ近いうちにそうも言ってられなくなる。じゃあどうするか。サインを見極める目は、実地で得た経験によって培われていく。当たり前やけどね。

 アルバイトなんかおすすめやね。いろんな人と関わりながら労働して社会に貢献して、対価として金を受け取って、好きなことにそれを使う。それが今のこの世の中の基本的な回り方やからな、感じは掴んでおいて損はない。というよりなによりも、先立つものは金や。豚カツをな、食べたいときに食べられるようになりなさいと、言うやろう。

 あとは学校の勉強したり、本を読んだり、映画を見たり。友達も大切やな。もちろん、人数じゃないで。けど人数が増えてくのも面白いし、助けになることもある。なかには危ないやつももちろんおるけどな。それから恋とか愛とかいうのんも、みなみな勉強やな。できればなるべく相手を傷つけないように。自分も傷つかないように…って、無茶な話か。しかし、取り返せないほどの傷というのは、避けられるように。いや、避けられないこともあるか。その時はその時で、また話をしよう。うん。言うてたら全部が全部、大切なもんになってしまったな」

 

もらったスティックパンはいまやすっかり胃の中だ。僕はもう一本欲しいなと無意識に思っている。街路樹の蝉は鳴くのをやめてじっと暑さを忍んでいる。

『普段通りじゃないことが何かこれから起きてきたとしても、不思議ではない』という言葉が、僕を少し不安にさせる。しかしこのおじさん、柳瀬さん、やけにとうとうと話すのは、どこかで教鞭を取っている人か、会社の偉い人か。それともおじさんになれば誰もがこんな風に話せるようになるものなんだろうか。

柳瀬さんはセカンドバックからハンカチを出して額を拭うと、長椅子から立ち上がり、ズボンのポケットからコインケースを取り出した。長話して、すまんの、なんか飲むか、と言ってそばの自販機の前まで行き、小銭を投入した。

 

僕が自販機のシズル感あふれるラインナップに目を走らせ頭を悩ませていると、一人の痩せた男が、赤提灯の影から、まるで陽炎を纏うように奇妙に揺れながら現れた。男は店の木戸の前まで来て、休業を伝える貼り紙に目を落とすとそのまま、釘付けにされたように動かなくなった。

動かなくなった?

柳瀬さんが後で駆けつけた救急隊員に話したところによると、その猫背の男は起立したまま、今にも瓦解して崩れ落ちそうなほどにぶるぶると震えていたという。

僕はエナジードリンクと迷った結果、水にすることにして、天然水のボタンを押した。ペットボトルが取出口に落ちる音と、お釣りの戻る音の何デシベルかが合わさって、あたりの静けさを少しだけ乱した。

そのやや耳障りな音の波は痩せた男にまで伝わって、決壊に至る最後の一滴となった。男は、嘔吐の寸前のような大口を開けて、噴火するように、奇妙な大声を絞り出した。

 

「ラーメン、食わせろらぁぁぁ!!」

ピューっと吹く!その階下で

2023年1月7日、土曜の午後。

バラエティ番組を見て笑って、面白く無くなってきて消した。プツンと静かになった部屋で一人、クッションにもたれ、無というやつになっていた。悲しくも、嬉しくもない。怒りも憎しみも0で、カロリーも0(起きてからほとんど何も食べていない)。その時の私はただしんと凪いでいた。

テレビが消えて静かになると、上階から音が聞こえてきた。高い笛の音色の二重奏で、私の知らない曲だった。それも録音ではないというのが、踏み鳴らす足音や、話し声などから分かる。上階の部屋に少なくとも二人の人がいて、仲良く笛を吹いているらしい。

演奏自体はその完成度から、本番を目前にした練習、という感じだった。真のすることなしだった私は暇人の好奇心をもって、その棚ぼたの演奏会に耳を傾けた。

変わった曲だった。伝統的なクラシック曲、という感じではない。その曲が属すべき国籍の見当もつかない。ある国土に近づいたと思うと、また離れてしまう。というかむしろ積極的に、どんな土地にも根ざさないぞという感じ。でもただ目新しいのではなく、古くから伝わってきたような厳しさとまとまりをもっている。彼らは、その聴き馴染みのない一曲をひたすらに演奏した。

曲の構成はいたってシンプルに、2分程度のフレーズの繰り返しで、その2分のフレーズは、不思議に無感情なメロディから始まり、激しい祈りのような昂りをもって終わる。そんな2分のフレーズも繰り返すうちに、重畳的なグルーブ感も出てくるし、解釈的にも、「個々の祈りを重ね合わせより広範な祈りとする」みたいに聴ける。

しばらくして演奏がやむ。私は小さく拍手を送り、小声で「ブラボー」と言う。そしてそんな自身の間抜けさを笑う。楽しい気分だった。しかし余韻は変にあっさりと消え去った。

誰もが心配するような摂取カロリーの低さで今日1日を夕方まできて、さすがにお腹が空いてコンビニへ。マンションを出てすぐの、道頓堀川にかかるS橋を渡っている時だった。不意にあの不思議に無感情なメロディが夕焼けの空にふたたび鳴り出した。空耳ではないはっきりとした音色に、思わず振り返りマンションを見上げた。視線の先、屋上に、笛を吹きながら奇妙に揺れる二つの影法師があった。瞬間、私はそのヤバさに思わず震え上がった。震え上がった真の原因は、影の異様さよりもその音色にあった。さきほどまでの音色はどこへやら、"本番"の演奏はかくも異様に残酷に響き、私を戦慄させた。

私はその曲の本当の目的を不意に理解した。2分のフレーズは反復されて、祈りは重なっていく。祈りは、はじめの一点に重なっていく。神経質に、絶対にズレないように、執拗に、はじめの一点に重なっていく。はじめの祈りに、つぎの祈りが重なる。そこにまた次の祈りが重なる。はじめの祈りはだんだんと重さを支えきれなくなってくる。崩れかけ、助けを求める祈りたちの声を無視して、(または楽しむようにして、)演奏はサディスティックに、無慈悲に無感覚に残酷にグルーブを増していく。そこに共感などありはしない(無いほうがマシだ)。ついに、はじめの祈りの骨が砕け、内臓は潰れ、その破砕音も叫び声も上から押し潰して重なる苦悶の叫びと鳴り止まない笛の音色。奏者はその役目を終えるまで決して演奏を止めない。どこまでもどこまでも祈りたちにとっては永遠のように続く演奏(実際に彼らにとってそれは永遠だ)。gif画像のバタコさんだかジャムおじさんだかがアンパンマンの顔を延々と焼き続けるように(唐突)、できたての死体が延々とつくられていく。そう、つまりその演奏の目的は、祈りを誘いおびき寄せ、祈りを殺しつづけることにある。

よく知りもしない能天気な頭で拍手と喝采を送っていた数分前の自身の無理解と間抜けさに私は恐怖しめまいし視界が狭くなる。狭くなる視界の中、屋上で揺れる奇体な影は夕日の太陽光線をとめどなく吸いこんで、限りなく膨張し空をその影で覆っていく。

 

昏倒しそうな私の足元、橋をくぐって一艘の船が現れる。ガソリン船は、水面の静けさを略奪するように切りさいて道頓堀の方へと進んでいく。船体が起こした波は護岸工事でせばまった川に反響し、うねりと渦を生む。その底を、船とはまた別の黒い影が這うように泳いでいく。それがはじめの祈りだ。

インドラ派

マナミさんはインドア派なんですか?

そうですね。

どういうところが?

歴史が古いところですかね。

歴史が古い?あ、歴史がお好きなんですか?

はい、結構好きで。大学でも勉強してました。

そうなんですね。歴史の本を読んだり、あとはどういうことを?

そうですね、あとはお酒飲んだり。お酒飲んで酔っ払ったりするのって、なんか人間くさくて良いなって。

人間くさくてですか? お酒で酔って人間くさいだなんて、普段は割とストイックなんですか?

そうですね。とてもストイックですよ。だから強くて、いろんな敵を殺します。

敵を殺す!?敵っていうと…職場とかの敵を…殺すんですか?

職場っていうか…まあ職場か。職場に襲ってきた敵を殺します。部下に命令して殺させたりとかもしますし、責任はすべて部下に負わせます。

 

ガン❗️(マナミの頭をグーで強めに殴る)

 

(目をひんむいて驚いた顔をするマナミ)

 

さっきから、おめぇ、インドアじゃなくて、インドラの話だな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ヒンドゥー教の雷の神様、インドラの話だな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

え!ごめんなさい!私ったら…!

いや、いいんですよ。僕の滑舌が良くありませんでした。僕が言っていたのはインドラじゃなくて、インドアです。

本当すみません…。

いえいえ

…ちなみにたくみさんはインドア派ですか?

いえ、僕はアウトドア派です。ドラえもんに会うたびに、

ドラえもん

旅行したいからどこでもドアだせって言ったり

会うとドア!!!

キャンプの時とか、さけるチーズをさいてたら野生のクマが飛び出してきたり

さくと怖!!!

『ペットボトル感覚で使える水筒』がコンセプトのリバーズのリユースボトルで、軽くて丈夫で大人気だったり

スタウトドア(水筒)!!!

 

ってほんとにちゃんとアウトドア!!!

残響散歌

これは私が勤めるスーパーで、商品の補充作業をしていた時の話だ。

 


お菓子の通路で商品補充をしていると、

ガシャン!と別の棚から何かが割れる大きな音がした。

お客様や従業員が商品を落として割ってしまうということがたまにある。

やれやれと思いながら私はその棚の方へ回った。

案の定そこには、床に散乱したドレッシングの瓶と、それを前に立ち尽くしているお客様の姿があった。

内心私は勘弁してくれよと思いながら、それを表情には出さないよう努めて、その女性に声をかけた。

 


「お客様、、、お怪我はございませんか?」

「…はい…取ろうと思ったら落としてしまって、、、本当にすみません。」

「お洋服など汚れたりしていませんか?」

「…はい。」

「あとは私が片付けておきますね。」

「…すみません……商品代金だけ払わせてください。」

「いえいえ、結構ですよ。たまにあることですので。お気になさらないでも大丈夫です。」

「…いえ、私の不注意で割ってしまったので、弁償します、、」

と言って財布を取り出そうとする。

「いえ、大丈夫ですよ。ここは片付けておきます。」

「…本当にすみません、、、」

そう言ってお客様は申し訳なさそうにその場を離れて、別の棚の方へ姿を消した。

 


時間取っちゃうなあと思いながら、バックヤードに清掃道具を取りにいき、売り場に戻ってきた時だった。

ガシャン!とまた大きな音が鳴った。

「嘘だろ?」と小さく口にして私はその音が鳴った方へ急いだ。

するとそこには、割れて床に散乱したジャムの瓶と、さっきとは別のお客様の姿が。

 


「え、、、、大丈夫ですか、、?」

「はい、、、手を滑らせてしまって、本当にすみません、、」

「いえ、、、良く、、、あることですので…ここは私が掃除をしておきま」

 


ガシャン!

 


今、このスーパーで、にわかには信じられないことが起きている。

 


私は目の前のジャムを割ったお客様に何か声をかけることもしないまま、その音の鳴った棚の方へ向かった。

今度はオリーブオイルの瓶が割れて床を濡らし、その前にはまた別のお客様が立ち尽くしている。。。

 

ガシャン!

 


ガシャン!

 


ガシャン!

 


今度は3方向から同時に音が起きる。

ワインの棚、ピクルスの棚、しゃけフレークの棚!!!

私はパニックに陥り、その場から動くことができない!!!

 


ガシャン!ガシャン!!!ガシャン!!!!!

 


ソースの棚!!!!!ジュースの棚!!!!!お酢の棚!!!!!!!

「やめてくれええええええええええええええええ!!!!」

頭を抱えてうずくまり、絶叫する私。

 


バリバリ!!!!!!!パーン!!!!!!!!!ビチャチャ!!!!!!!!!!

 


せんべいの棚!!!ポテチの棚!!!ケチャップの棚!!!!!!!!!「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!」

 


グニグニ!ネバネバ!プリプリ!

 


グミの棚!納豆の棚!えびの棚ああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!「俺があああああああああああああああ、俺がああ、何をしたあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 


私はそこで気を失い、数日後、病室で目を覚ました。

私はその日のことがショックで、しばらく出勤できなくなってしまった。

私の代理でやってきた店長が、私が店の金を着服していたことを見つけて会社に報告、私はそのままクビになり、それ以来もう二度とその店に近づくことはなかった。

 


あれは、なんだったのでしょうか……。

春の嵐

 

 

「私、森山直太朗になりたいの。」


ボックスシートの斜交いに一人で座っていた知らない女が、突然そう言った。きっかけのようなものは一つもなかった。僕の耳はイヤフォンに塞がれていたわけでもなかったので、その言葉をするりと聞き入れた。私、森山直太朗になりたいの。僕はその声に縛りつけられたみたいになって、自分を動かして新しく何かをするということができなくなった。僕はそれまでそうしていたように窓外を見る、そのフリを続けた。窓には反射して女が映っていた。窓の女は透けていて、透けた女はまぎれもなく僕の方を見つめていた。女は続けた。


「私、森山直太朗になりたいの。森山直太朗になって、テレビに出たいの。」

 

僕はとても怖かった。語尾の"の調"が不気味さを増幅させる。またそれとは裏腹に好奇心の発芽もあった。女の言葉への返答が書かれたカードが数枚、勝手に脳裏に浮かんでくる。そこから一枚のカードを選ぶ。よせばいいものを、僕はそのカードを試したくなる。


「う、歌番組とかですか?」


女の方を見て言う喉から体が熱くなる。真っ向から見る女の実像は透けてはいない、当然だ。女は僕と同世代くらい、24、5歳とかに見える。森山直太朗を知らない人が少しくらいいても全然不思議ではない世代だ。いや、不思議なのだろうか。よく分からない。女は答えた。


「そうかしら。森山直太朗だもの。テレビ番組のMCも務めたことがあるくらい、彼は話せるから、全然歌わない時だってあるわ。あるけど…歌番組でしょうね。だいたいは歌うもの。だから私も…歌うことになるでしょうね。」

 

そう言って彼女は僕側の窓の風景に目をやった。いまは春で、田園地帯を走る電車の車窓は時おり満開の桜並木を流して美しい。流し目様になった彼女の目元の造形を盗むように僕は見た。さらさらと光が走る風景の清冽さを映して、その瞳はすっと透けていた。


彼女のゆったり余裕のある落ち着いた口調と、見た目の普通さとで、この短時間ではじめの不気味さは随分影を潜めていた。すると警戒心よりも好奇心が勝ってくる。一体どういう人なんだろう、この人は。はじめの目測よりもっと年上かもしれない。クラス全員、森山直太朗を知っている世代の。『さくら(独唱)』でブレイクしてからの『夏の終わり』のリリースを、リアルタイムで見ていた世代(これは帰宅してからインターネットで調べた)の。しかしそうなると、彼女の見た目は計算に反して若すぎるようにも思う。


「そうなんですね…」


興味は増しても、相槌を打った僕の頭の中で言葉のカードは尽きている。その時に聞きたかったことを、いつも僕は後から思いつく。どうしようもなくなった僕は、左手に握っていたスマホを持ち上げる。タップして暗い画面を明るくする。新着通知が点いていたのでメールアプリを開く。新着メールすべてがいつものようなメールであることを確認する。いつものようなメール、通販サイトからのメール、通信会社からのメール、転職サイトからのメール。いつものような日常から遠く離れた、知らない景色の風を心に通したいと思って、ここまで旅に来たことを僕は思い出す。変わり映えしない日常に、目に見える変化を求めていたことを僕は思い出す。

トントントンと慣れた手つきで操作して、メールを削除する。彼女がまだ僕の方を見ているのが視界で分かる。僕は顔を上げてもう一度訊ねる。


「その、森山直太朗になって、歌番組で歌いたい歌とかってあるんですか?」


その質問に彼女はふっと息を漏らして微笑んだ。

いとも簡単に僕はときめいた。彼女は答えた。


「それこそ、彼になってみてからのお楽しみなの。彼になって、彼の喉で、彼の体で歌ってみてから決めようと思ってるの。」

だけどその時の僕は当然、ただの変わり者の冗談だとしか思っていなかった。こんなにも線の細い、妖しくも美しい女性が、

「…なんていって本当は、第一希望は決めてあるんだけど。」

本当に森山直太朗になってしまうだなんて。

 

〜つづく〜