春の嵐

 

 

「私、森山直太朗になりたいの。」


ボックスシートの斜交いに一人で座っていた知らない女が、突然そう言った。きっかけのようなものは一つもなかった。僕の耳はイヤフォンに塞がれていたわけでもなかったので、その言葉をするりと聞き入れた。私、森山直太朗になりたいの。僕はその声に縛りつけられたみたいになって、自分を動かして新しく何かをするということができなくなった。僕はそれまでそうしていたように窓外を見る、そのフリを続けた。窓には反射して女が映っていた。窓の女は透けていて、透けた女はまぎれもなく僕の方を見つめていた。女は続けた。


「私、森山直太朗になりたいの。森山直太朗になって、テレビに出たいの。」

 

僕はとても怖かった。語尾の"の調"が不気味さを増幅させる。またそれとは裏腹に好奇心の発芽もあった。女の言葉への返答が書かれたカードが数枚、勝手に脳裏に浮かんでくる。そこから一枚のカードを選ぶ。よせばいいものを、僕はそのカードを試したくなる。


「う、歌番組とかですか?」


女の方を見て言う喉から体が熱くなる。真っ向から見る女の実像は透けてはいない、当然だ。女は僕と同世代くらい、24、5歳とかに見える。森山直太朗を知らない人が少しくらいいても全然不思議ではない世代だ。いや、不思議なのだろうか。よく分からない。女は答えた。


「そうかしら。森山直太朗だもの。テレビ番組のMCも務めたことがあるくらい、彼は話せるから、全然歌わない時だってあるわ。あるけど…歌番組でしょうね。だいたいは歌うもの。だから私も…歌うことになるでしょうね。」

 

そう言って彼女は僕側の窓の風景に目をやった。いまは春で、田園地帯を走る電車の車窓は時おり満開の桜並木を流して美しい。流し目様になった彼女の目元の造形を盗むように僕は見た。さらさらと光が走る風景の清冽さを映して、その瞳はすっと透けていた。


彼女のゆったり余裕のある落ち着いた口調と、見た目の普通さとで、この短時間ではじめの不気味さは随分影を潜めていた。すると警戒心よりも好奇心が勝ってくる。一体どういう人なんだろう、この人は。はじめの目測よりもっと年上かもしれない。クラス全員、森山直太朗を知っている世代の。『さくら(独唱)』でブレイクしてからの『夏の終わり』のリリースを、リアルタイムで見ていた世代(これは帰宅してからインターネットで調べた)の。しかしそうなると、彼女の見た目は計算に反して若すぎるようにも思う。


「そうなんですね…」


興味は増しても、相槌を打った僕の頭の中で言葉のカードは尽きている。その時に聞きたかったことを、いつも僕は後から思いつく。どうしようもなくなった僕は、左手に握っていたスマホを持ち上げる。タップして暗い画面を明るくする。新着通知が点いていたのでメールアプリを開く。新着メールすべてがいつものようなメールであることを確認する。いつものようなメール、通販サイトからのメール、通信会社からのメール、転職サイトからのメール。いつものような日常から遠く離れた、知らない景色の風を心に通したいと思って、ここまで旅に来たことを僕は思い出す。変わり映えしない日常に、目に見える変化を求めていたことを僕は思い出す。

トントントンと慣れた手つきで操作して、メールを削除する。彼女がまだ僕の方を見ているのが視界で分かる。僕は顔を上げてもう一度訊ねる。


「その、森山直太朗になって、歌番組で歌いたい歌とかってあるんですか?」


その質問に彼女はふっと息を漏らして微笑んだ。

いとも簡単に僕はときめいた。彼女は答えた。


「それこそ、彼になってみてからのお楽しみなの。彼になって、彼の喉で、彼の体で歌ってみてから決めようと思ってるの。」

だけどその時の僕は当然、ただの変わり者の冗談だとしか思っていなかった。こんなにも線の細い、妖しくも美しい女性が、

「…なんていって本当は、第一希望は決めてあるんだけど。」

本当に森山直太朗になってしまうだなんて。

 

〜つづく〜