ピューっと吹く!その階下で

2023年1月7日、土曜の午後。

バラエティ番組を見て笑って、面白く無くなってきて消した。プツンと静かになった部屋で一人、クッションにもたれ、無というやつになっていた。悲しくも、嬉しくもない。怒りも憎しみも0で、カロリーも0(起きてからほとんど何も食べていない)。その時の私はただしんと凪いでいた。

テレビが消えて静かになると、上階から音が聞こえてきた。高い笛の音色の二重奏で、私の知らない曲だった。それも録音ではないというのが、踏み鳴らす足音や、話し声などから分かる。上階の部屋に少なくとも二人の人がいて、仲良く笛を吹いているらしい。

演奏自体はその完成度から、本番を目前にした練習、という感じだった。真のすることなしだった私は暇人の好奇心をもって、その棚ぼたの演奏会に耳を傾けた。

変わった曲だった。伝統的なクラシック曲、という感じではない。その曲が属すべき国籍の見当もつかない。ある国土に近づいたと思うと、また離れてしまう。というかむしろ積極的に、どんな土地にも根ざさないぞという感じ。でもただ目新しいのではなく、古くから伝わってきたような厳しさとまとまりをもっている。彼らは、その聴き馴染みのない一曲をひたすらに演奏した。

曲の構成はいたってシンプルに、2分程度のフレーズの繰り返しで、その2分のフレーズは、不思議に無感情なメロディから始まり、激しい祈りのような昂りをもって終わる。そんな2分のフレーズも繰り返すうちに、重畳的なグルーブ感も出てくるし、解釈的にも、「個々の祈りを重ね合わせより広範な祈りとする」みたいに聴ける。

しばらくして演奏がやむ。私は小さく拍手を送り、小声で「ブラボー」と言う。そしてそんな自身の間抜けさを笑う。楽しい気分だった。しかし余韻は変にあっさりと消え去った。

誰もが心配するような摂取カロリーの低さで今日1日を夕方まできて、さすがにお腹が空いてコンビニへ。マンションを出てすぐの、道頓堀川にかかるS橋を渡っている時だった。不意にあの不思議に無感情なメロディが夕焼けの空にふたたび鳴り出した。空耳ではないはっきりとした音色に、思わず振り返りマンションを見上げた。視線の先、屋上に、笛を吹きながら奇妙に揺れる二つの影法師があった。瞬間、私はそのヤバさに思わず震え上がった。震え上がった真の原因は、影の異様さよりもその音色にあった。さきほどまでの音色はどこへやら、"本番"の演奏はかくも異様に残酷に響き、私を戦慄させた。

私はその曲の本当の目的を不意に理解した。2分のフレーズは反復されて、祈りは重なっていく。祈りは、はじめの一点に重なっていく。神経質に、絶対にズレないように、執拗に、はじめの一点に重なっていく。はじめの祈りに、つぎの祈りが重なる。そこにまた次の祈りが重なる。はじめの祈りはだんだんと重さを支えきれなくなってくる。崩れかけ、助けを求める祈りたちの声を無視して、(または楽しむようにして、)演奏はサディスティックに、無慈悲に無感覚に残酷にグルーブを増していく。そこに共感などありはしない(無いほうがマシだ)。ついに、はじめの祈りの骨が砕け、内臓は潰れ、その破砕音も叫び声も上から押し潰して重なる苦悶の叫びと鳴り止まない笛の音色。奏者はその役目を終えるまで決して演奏を止めない。どこまでもどこまでも祈りたちにとっては永遠のように続く演奏(実際に彼らにとってそれは永遠だ)。gif画像のバタコさんだかジャムおじさんだかがアンパンマンの顔を延々と焼き続けるように(唐突)、できたての死体が延々とつくられていく。そう、つまりその演奏の目的は、祈りを誘いおびき寄せ、祈りを殺しつづけることにある。

よく知りもしない能天気な頭で拍手と喝采を送っていた数分前の自身の無理解と間抜けさに私は恐怖しめまいし視界が狭くなる。狭くなる視界の中、屋上で揺れる奇体な影は夕日の太陽光線をとめどなく吸いこんで、限りなく膨張し空をその影で覆っていく。

 

昏倒しそうな私の足元、橋をくぐって一艘の船が現れる。ガソリン船は、水面の静けさを略奪するように切りさいて道頓堀の方へと進んでいく。船体が起こした波は護岸工事でせばまった川に反響し、うねりと渦を生む。その底を、船とはまた別の黒い影が這うように泳いでいく。それがはじめの祈りだ。